近頃は、スポーツエンターテイメントの世界も大きく様変わりした。
選択肢の多様化によりかつてドル箱であった巨人戦であってもプロ野球の「放送時間延長」が無くなり、今や日本シリーズやWBCでしかテレビの視聴率が取れないという。
なによりも驚いたのは阪神タイガースの選手の名を大阪北新地の夜のお姉さんたちが知らないという。
その中でも地上波で放送が無くなって久しいプロレスはどうか?
我々が最も熱中していた80年代、90年代、馬場や猪木、鶴田や藤波、長州を知るファンはもう会場に足を運ばない。
プロレス団体もそんなオールドファンを対象にはしていない。
彼らコアなマニアは自宅で過去のDVDを静かに鑑賞する。
プロレスとは、
相手を「殴る、蹴るの暴行を加え」ときに出血に至るほどの「傷を負わせ」大声で叫び、相手を罵倒して「脅迫する」ものである。
法治国家であれば、それぞれ「暴行罪」「傷害罪」「脅迫罪」に該当する。
ただし、「スポーツの目的で一定のルールを守って行われる限りにおいては」正当業務行為として違法性が阻却され犯罪は成立しない。
ボクサーや相撲の力士が誤って相手を死に至らしめたとしても罪に問われることはない。
で、これが即プロレスラーに通用するかといえばそうではない。
スポーツとは「競技者」「審判」「ルール」で成立する。
しかし、プロレスはこの3つだけでは成立しない。
「観客」がいなければ成立し(行われ)ないのだ。
一定のルールがあるといっても明文化されておらず、
5カウント以内なら噛み付いても、急所を蹴飛ばしても、凶器の使用も”何をやってもいい”がルールとは認められない。
今、プロレス会場に足を運ぶファンはプロレスの試合をイベントとして捉えている。
プロレス観戦が若者のデートコースに組み入れられている時代なのだ。
いくら大物レスラーが参戦してもチケットの売り上げにはさほど影響がないという。
そのとき、そのときが如何に楽しく、エキサイトしなければ観客は会場に二度と足を運ばない。
しだいに観客はサディスティックになり更なる刺激を求め、選手はマゾヒティックになって自らの身体を傷つけそれに応えていく。
インディーズ団体はもちろん、メジャー団体であっても経営は苦しいという。
選手のギャランティーだけでなく、健康管理に各種保険、経営を圧迫しているひとつが訴訟問題である。
いくら鍛えても度重なる後頭部、足腰への攻撃でダメージは蓄積する。
プロレスラーといえども生身の人間である。
お互いに技を受け合わなければ成り立たないプロレスでは
いつか必ず事故がおこる。
そこでプロレス興行に最も重要になってくるのが、「アングル」と呼ばれる
「筋書き」である。
いまどきプロレスが「真剣勝負」とか「八百長」だとかを問題にするファンはいない。
自分の払った対価にふさわしい「興奮」「感動」を得られればいい。
そのための「筋書き」が興行の成否を決めレスラーの身を守り「正当業務行為」を成立させる担保となる。
今の観客は昔と違う。
プロレスはファッショナブルであり洗練されていなければならない。
プロレス興行のお約束である場外乱闘さえも、いまやお約束では済まされない。
元々プロレスはキワモノ扱いされており、一般紙のみならずスポーツ新聞においても扱いは小さい。
三沢光晴*1レベルならともかく試合中や練習中の死亡や怪我の訴訟についても事件として新聞に載ることは稀だ。
野球場に行く人でスタンドにボールが飛び込んでくることを知らない人はいないだろうし、ボールに当たれば怪我をすることはわかっている。
でも、今のプロレスファンは場外乱闘を想定していない。
テレビでプロレスを観たことのない世代には”危険の引受け”がなされていないのである。
場外乱闘の巻き添えになって怪我でもしようものなら治療費はもちろん訴訟の対象になる。
まして、一般人をリングに上げるなら一人一人に一筆書いて貰うくらいの慎重さが必要になる。
私はプロレスファンである。
だからこそ心配なのだ。
「プロレスが剣道や柔道、空手とどこが違うんだ?!」と公言できる純粋さが恐ろしいのである。
プロレスでは「受身」が基本のひとつと言われるくらいに徹底的に受身の練習をする。
柔道やアマレス、相撲では初心者はともかくとして、さほど受身の練習などしない。
なぜなら、柔道や相撲やアマレスで受身を必要とするのは負けた時であるからだ。
武道は、
「礼に始まり、礼に終わる。」
「プロレスは暴力的であり、言葉遣いが乱暴である」という一宮市の良識は、
時と共に消え失せてしまったのだろうか?・・・。
*12009年6月13日、試合中リング禍(バックドロップによって頭部を強打したことによる頸髄離断)により死去。46歳没。
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